自衛隊から本宮プロへ、第4回さいとう・たかを賞受賞者武論尊氏インタビュー【前編】

自衛隊から本宮プロへ、第4回さいとう・たかを賞受賞者武論尊氏インタビュー【前編】

 

さいとう・たかを劇画文化財団では、分業・プロダクション方式でのコミック制作を貫いてきた「さいとう・たかを」の志を受け継ぐコミック制作者に光を当て表彰し、その制作文化の継承を行うことを目的とした「さいとう・たかを賞」を2017年より開催してきました。

 

2020年度は、新型コロナウイルス感染拡大の情勢下においても「さいとう・たかを賞」の目的である『ゴルゴ13』制作システムの文化継承を実行していくべく、例年とは形を変えて、分業・プロダクション方式でのコミック制作に長らく尽力されてきた方に、<特別賞>を贈呈する運びとなりました。厳選なる選考の結果、積年の多大な功績は言うに及ばず、「武論尊塾」における私費での後継者育成を継続されている武論尊氏に賞を贈りました。

 

武論尊氏は、1972年に少年ジャンプから『五郎くん登場』でデビュー。『ドーベルマン刑事』や『北斗の拳』、史村翔のペンネームでは『サンクチュアリ』など、名作を次々と生み出されました。

 

今回は武論尊氏に、デビューまでの経緯を中心に、どのように漫画原作者の道を歩まれたのかを伺いました。聞き手:佐藤敏章(さいとう・たかを賞事務局長)

 

 

 

◆さいとう・たかと武論尊の共通点

 

――この度は、さいとう・たかを賞をお受けいただき、ありがとうございます。

 

武論尊:さいとう先生に俺の名前持っていったら、さいとう先生は、いやって言わないでしょ。

 

――お二人はどういうお付き合いなの?(笑)。一緒に仕事していないし。

 

武論尊:ゴルフです。なぜか、さいとう先生から俺と回りたいって。なんでしょうね。俺、じじい転がすの得意だから。

 

――(笑)一緒に話していて、とても気持ちが良かったんでしょうね。

 

武論尊:さいとう先生に、昔の武勇伝というか、銀座で暴れてた頃の話を聞くと、嬉しそうに「そうだったんだよ」って。

 

――ひと回りぐらい年齢差だけど、馬が合ったんですね。

 

武論尊:『HEAT-灼熱-』で小学館漫画賞をもらった時も、さいとう先生がみんなの反対の中、俺の作品を強烈に推してくれたそうで。俺にはどこかで恩返しというか、感謝の気持ちがあります。さいとう賞の授賞式のスピーチでも話したけど、俺の受賞はさいとう先生が必ず絡むでしょう。同じ系統の作品を描いていることもあるだろうし、エンターテインメントっていうこだわりがある。漫画も面白けりゃいいっていうのが徹底しているじゃない?たぶん、さいとう先生は俺のそういうところを見てくれていたんだね。

 

――さいとう・たかをと武論尊の似ているところは職業としての“コミック”の選択ですよ。どこまでも仕事としてコミックにかかわる。自己表現なんて、青臭いことは言わない(笑)。

 

武論尊:手づくりの職人みたいな感じかな。文化じゃなくていい、娯楽なんだって。さいとう先生は、コミックは娯楽だということに、すごくこだわっていたから。

 

 

 

◆自衛隊から本宮プロダクションへ

 

――武論尊さんは自衛隊にいたじゃないですか。 なぜ自衛隊だったの?

 

武論尊:家が貧乏で金がなかったから、高校に行く選択肢は最初からないのよ。普通の中卒でどっかに丁稚奉公って嫌じゃん。でも目立ちたがりなの。自衛隊ってちょっと変わっていて、高校も行かせてもらえて資格取れて、しかも給料もらえる。だから変わり者にはちょうどいいなって。そこで本宮ひろ志先生がおられたわけですよ。

 

――本宮さんのほうが年齢は下ですか?

 

武論尊:同い年。同じ小隊に目つきの悪いチビがいるんですよ。それが本宮さん。小隊は30人しかいなかったから結構仲良くなって。本宮さんは1年ちょっと経った時に、「漫画家になるから」って辞めていったの。漫画を描いているのを見たことがなかったから、みんなが驚いていたね。辞めた後、2年くらいは苦労したんじゃない? 工場に勤めながら描いていたって話を聞いていたから。

 

俺は行くところもないし、自衛隊にいようって決めて、結局7年間はいたのかな。俺なりに自衛隊の7年間、いかに楽しくやるかを考えていた。自衛隊員としては落ちこぼれですよ。だって、俺が向いているわけないじゃん、自衛隊に。

 

――それが、7年間もいたんだからすごい(笑)。

 

武論尊:覚えたのは酒と麻雀と…。4年間学校に行って、そのあと専門職でレーダーの整備をやっていたんだけど、卒業するまでプラスとマイナスがわからなかったからね。「あいつに機械を触らせるな!」って言われたぐらい。それでも階級が上だから一応班長なんです。本当にいい加減なんです、生き方が。

 

――高校行けないから家業を継ぐ話はよく聞くけど、そうはならなかった。

 

武論尊:実家が農家で、この作業が本当に嫌で。貧しい農家っていうのは本当に辛かったね。中学校の時に学校が合併されて、ちょっと街中の中学と一緒になったの。それで仲の良い同級生が5人ぐらい遊びに来て、「岡村、お前はすごい暮らしをしているよ」と言われて。それを聞いてショックで、本当に家を出るしかないなって。

 

――そういうところも、家業の理髪店を継ぐのが嫌だったさいとう先生に似ていますね。

 

武論尊:同い年の子たちが大学を卒業する年に、俺の性格を考えると自衛隊を定年まで続けるは無理だなって思って。あとは、整備では実はちょっと優秀で、3次元レーダーを開発する部隊に行かされそうになったんだけど、そこは東大出の連中ばっかりなんですよ。無理でしょ。そしたらもう辞めるしかない。「よし、もう1回何か違う人生見つけてみよう!」って思ったの。

 

自衛隊を出てきたら、とっくに自衛隊を辞めている独身がいっぱいいるんですよ。みんなプータロー。「岡村(※本名:岡村善行)が、辞めてきた!」って言って、みんなで俺の退職金を全部使い果たしたんですよ。それで路頭に迷っていたの。当時、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』が既に売れていて、「岡村、困っていたら、俺のところに遊びに来いよ」って声をかけられて、居候で転がり込んだのが、この世界に入ったきっかけ。

 

――漫画は読んでいましたか?

 

武論尊:読んでいましたが、携わるなんてことは一切なかったです。本宮さんのところでも、ベタ塗れない、もちろんホワイトもかけられない。何をやったかというと、映画『社長漫遊記』の三木のり平です。「バーッと行きましょう!」って、宴会部長(笑)。それを見ていた当時の週刊少年ジャンプの担当編集者の西村繁男さんが、「これはまずい。とりあえず、なんかさせなきゃ」と。「お前、ベタ塗れないんだから、原作でも書いてみろ」って。

 

――担当者が嫌がるほど密着していたんですね。

 

武論尊:アシスタントがカリカリ仕事をやっているのに、先生誘ってお酒飲みに行っちゃって、麻雀やってるわけだから。俺はベタをわざと外すからね、嫌だから。

 

――なんちゅうことを(笑)。

 

武論尊:原作の書き方がわからないから、最初はストーリーを大学ノートに大雑把に書いたんですよ。こんなもんかなーって。そしたら西村さんが「あれ、お前書けるかもしれないぞ」って。それで家に呼ばれたら、原稿用紙が用意してあって、一行開けるとか句読点の付け方といった原稿用紙の書き方から教えてもらいました。

 

――文章を書く原体験のようなことはあったんですか?

 

武論尊:ない。西村さんも、宴会で俺が場を盛り上げているの見てて、「なんかこいつ面白いかもしれない」っていうのが、あったのかもしれない。俺もびっくりですよ。教えてもらって形にしていったら、さほど直しもなしにできたからね。俺も後で読み返したら、2作目でこれを書いたんだってびっくりするくらい、良く書けている。資料を読みこんで、ちゃんとストーリーにしているの。ちゃんと泣かせも入っていて。

 

2作目の『南沙織物語』は、沖縄から出てきて、苦労した話とか入れたりして。結構、お涙頂戴でうまくつくっている。そこから2、3本やった後に、連載をもらえたの。この『南沙織物語』を書いた時に、編集は、これを見たら俺に興味持つだろうって感じたの。それが大きなターニングポイント。

 

 

 

◆デビューから連載まで

 

――連載までが短いな。

 

武論尊:はやかったね。デビューして1年後には連載をもらったんじゃない?

 

――びっくりなのが、同時に講談社でも仕事を始めているじゃないですか。

 

武論尊:講談社は当時本宮さんの担当だった栗原良幸さんがいたから。本宮さんが、俺に「講談社でもやんなよ」って言ってくれて、読み切りをやって。栗原さんとは、いつも喧嘩ばかりだったけどね。

 

――少年サンデーの編集部にも、噂は、いろいろ入ってくるんですよ。「なんではじめからこんなに書けるの?」って、驚きはありましたね。

 

武論尊:俺自身びっくり。本当にズブの素人がトントントンっていったわけだから…なんでしょうね。本宮プロに入ってなければ全然違うところに進んでいたんでしょうね。女好きだからキャバレーかなんかのボーイになっていたのかも。

 

――当時、西村さんの教えでよく覚えていることはありますか?

 

武論尊:あの人は良いか悪いかしか言わないけど…。「本を読め」だね。文学青年っぽかったね。「ブーやん、なに本読んでる?」とか、そんな感じだね。

 

――西村さんって、外にいても聞こえるくらい、名だたる編集者でしたよね。

 

武論尊:目を付けてくれたってのはある。個人的に飲み連れていつてくれたし。西村さんが労働組合の役員をしている時に、「ブー、ちょっと来い」「なんですか」「いいからちょっと来い」って言われて。メーデーだったんですよ。「お前、プラカード持て」って言われて。「俺、作家ですけど…」「誰も出てこねえんだよ」って。

 

――ジャンプの編集者が、まじめにメーデーに行くと思えないし(笑)。

 

武論尊:そうやって個人的に可愛がられていた。だから、『ドーベルマン刑事』がヒットした時、一番喜んでくれたんじゃないかな。

 

――『ドーベルマン刑事』のヒットまで、そんなに時間はかからないんですよね。

 

武論尊:いや、4〜5年ぐらい。

 

――でも、その間もずっと他に連載していますよね。

 

武論尊:ラッキーなことに、デビューしてからは食べられるくらいには稼げていたね。

 

――当時のジャンプだったら、専属にするって言いそうじゃないですか。

 

武論尊:当時、俺が専属を拒否しても、『ドーベルマン刑事』が終わるわけないじゃない? だから、嫌だって言ったの。でも、その代わりに、よそでやる時はペンネームを史村翔でやるから、それで勘弁してくださいって。その時編集長から、「お前は頑固だなぁ」って言われたのを覚えています。

 

――『ドーベルマン刑事』って毎回20ページくらい?

 

武論尊:19ページの読み切りです。

 

――毎回読み切りで毎週? すると全部で200本くらいか。 普通、毎週は書けないですよ。19ページで事件を起こして解決するところまでやらなきゃいけないんだから。

 

武論尊:引越しの時にびっくりしたんだけど、『ドーベルマン刑事』を書いている時、新聞の面白いと思った記事を切り抜いて作ったスクラップブックが、10冊くらいあったの。そこまでやらないとネタを拾えなかったんだろうね。俺、真面目にやっていたんだなって思ったよ。

 

デビューしてから4年経つころには、今までフラフラしていたのが落ち着いて。その間に、『ファントム無頼』もあったし、こういう作品も書けるぞっていう幅も出た。だから、基礎的な力は『ドーベルマン』が培ってくれたかな。

 

――短いページの読み切りで、読者へ思いを伝えられるような構成力はなかなかつかないもんですが、書けたのは、天性?

 

武論尊:今思うとね。資料からネタを引っ張り出しながら、話を作る。2作目でそれできたって、我ながらすごいと思う。

 

――話は変わるけど、小学館の編集の亀井修さんは、シナリオの書き方のハウツー本を渡して、あんまり経験のない人に書かせるじゃないですか。武論尊さんは、そういうのも何もなしだから、すごいなあ。

 

武論尊:その亀井さんが目をつけてくれて。いきなり『ファントム無頼』の話持ってきたの。あの人とは酒場で飲んでしかいないんだよ。書いているものを見せてから1年ぐらい経った後に、いきなり電話で新宿に呼び出されて、「こいつ、新谷ってやつなんだけど、メカは描けるけどキャラが弱いんだ。お前自衛隊いたんだろ、戦闘機もの書けるだろ」って。「ちょっと待ってくださいと、今、自衛隊もの絶対駄目ですって」言ったら、「それは俺が責任とるから、とりあえずやれ」って。

 

――ジャンプから出てきて、集英社だけじゃなく、講談社、小学館でちゃんと仕事をしてヒット作を生んでいくのがすごい。

 

武論尊:俺ね、人についているんだよ。西村さん、亀井さんそうでしょ、林洋一郎さんいたじゃん。めっちゃ、可愛がられるんだよ。最後には「ブーやん、頼みがあるんだ。俺の妹、嫁にしてくれねえか」って。

 

――よっぽど見込まれたんだ(笑)。当時の、林、亀井って、小学館男性誌コミックの現場編集者では、トップですよ。

 

武論尊:恵まれているね。

 

――それから、『北斗の拳』が生まれてくる。

 

武論尊:あれは棚からぼた餅みたいなもん。原先生が持っていたアイデアを「連載になるからシナリオ書いてくれ」って言われて。そのアイデアを見たら、拳法が面白かった。そこから近未来の設定を提案して、OKをもらった時には、俺のなかで「これは当たるな」って。

 

――1話を読んだ時に、そういう感じはしましたね。ページ数が多かったしね。

 

武論尊:それは西村さんが通してくれた。やっぱりあの量を2回に分けちゃいけないのよ。

 

――やっぱり人たらしだ(笑)。でも大事なことだよなぁ。

 

武論尊:安孫子先生(藤子不二雄A先生)にしても、さいとう先生にしても、みんな人たらしですよ。さいとう先生も強面に見えてナイーブじゃないですか。

 

――編集者を企画のなかに入れますね。編集者に対して「描いたから黙って持って帰れ」じゃない。それが大切なことに繋がっていくんでしょうね。

 

武論尊:最近さ、若い編集もガンガン書き直させてくるんだよ。本当にお前ら俺をいじって楽しんでねえかってくらい(笑)。

 

――さいとう先生も、『ゴルゴ13』なんか、もう任せてましたね。構成以降の部分については自分のパートだけど、その前のそのシナリオ段階はほとんどタッチしない。僕の担当時代はもっと関与されていましたけど。だからこそ、若い編集者がしゃかりきになってやる感じはありますよね。

 

武論尊:だから今、俺の担当は意見を言えるから、はっきり言うわけじゃん。でも、ズレてることもあるから、それはズレてるぞって言うけどね。

 

――天下の武論尊にそう言えるのは楽しいだろうな(笑)。

 

武論尊:俺は書くものにどこかで自信持ってないから。100%書けた原稿は、年間50本くらい書いても3本ぐらい。あとはだいたい70%くらいで濁してる。50%くらいの出来だと、優秀な編集者だとバッサリ言われる。

 

 

 

◆ヤングマガジン創刊号でも連載開始

 

――それが長生きのコツだな。で、作品的に言うとちょっと前かもしれないけど、週刊ヤングマガジンの創刊にぶつかるじゃないですか。あの時に、史村さんの作品世界が広がった感じがするんですよね。

 

武論尊:元々コメディを書きたかったからね。コメディってエンターテインメントの一番の基本じゃないですか。

 

――デビュー前後の連載ってソフトな感じで、それから堅い作品がヒットして、そちらに進んでいましたからね。

 

武論尊:そうそう。特にジャンプ系はね。ヤンマガは何を書いてもいいっていう話だったから、楽しくやらせてもらったなあ。創刊だから新人ばっかり集めていて、ヒット作を持っていたのは俺ぐらいだったからね。

 

――読者の年齢が上がったから書きやすい部分もあったでしょう。

 

武論尊:エロネタが書けるから。どこかで俺の願望が出ているんですよ。コメディで、女子高の先生がやりたいつていうのから生まれたのが、『OH!タカラヅカ』だしね。

 

笑うのも泣かせるのも書けたし、エンターテイメントなんでね、何でも書くんですよ。